大関に要求される高すぎる水準。鶴竜、琴奨菊、琴欧洲の悲哀とは?
稀勢の里の綱取りが極めて厳しい状況になった。
今場所の見所は、最強横綱:白鵬の長きに亘る専制に対して
遂に稀勢の里が風穴を開けるか?
そして、新時代は訪れるか?
ということだった。
だが5日目でその論点は、ご破算になった。
大関獲りは、妙義龍くらいしか今のところ期待できない。
幕内では、上位陣を脅かしそうな若手は見当たらない。
どちらかと言えば学生横綱の遠藤や、
アフリカ人初の関取:大砂嵐がどこまでやれるのか?
というポイントの方が目新しくて楽しい。
優勝争いに関しては、誰がというよりは白鵬の
記録という見方しか出来ない。
対抗馬らしい対抗馬が、日馬富士しか居ないのだから。
そこで気になるのが、稀勢の里以外の大関のことである。
鶴竜。
琴奨菊。
琴欧洲。
彼らの能力は疑いようも無いほど高い。
成績的にも豪栄道や栃煌山、妙義龍らとは比べ物にならない。
そんな彼らは、その能力故に将来を嘱望された。
関脇だった時代は、大関に成ることこそが
彼らのテーマであり、そしてファン達の論点でもあった。
そして、彼らはその期待に応えて大関に昇進した。
これは、素晴らしいことである。
ファンの思いを乗せて、彼らは一つのゴールに到達した。
そして、そのゴールに到達することは、
その時点でのハッピーエンドとも言える。
だが、映画であればその後スタッフロールが流れて
御仕舞なのだが、現実世界では大関としての
務めも果たさねばならない。
むしろ大関に成ることはゴールではなく、始まりなのだ。
地位と名声を手に入れるその裏には、
それらを受けるにふさわしいだけの成績が要求される。
それは勿論、勝ち越しやクンロクといった次元ではない。
10~11勝だと大関としては合格点。
だが、非常に大変な話なのだが、大関としての
合格点を取ることを我々は要求しているわけではないのだ。
10~11勝をマークしていれば、
その先には横綱に成ることを要求される。
クンロク以下の成績であれば、激しい批判に晒され、
大関として最低限のラインを求められる。
大関にとって厳密な意味での合格点というのは、
綱取りに挑むことであり、10~11勝をアベレージで
マークすることではない。
そういう意味で言うと、かつての把瑠都や
今の稀勢の里は大関としての務めを果たしていると言えるが、
鶴竜、琴奨菊、琴欧洲はファンにとっての要求水準を
満たしていないのが実情なのである。
悲しいことに、今の状態では彼らが白鵬を倒し、
綱取りが期待されるレベルに成ることは無い。
それは、綱取りの期待が掛かるのが
常に稀勢の里であることからも明白なのである。
素晴らしい力士であることは疑いようの無い事実だ。
だが、大関獲りの次のステップは、
普通の大関にとってはとてつもなく高い山なのである。
ましてやそれが、稀代の大横綱と同じ時代だったとしたら
どうだろうか?
勿論、彼らは頂点を目指して相撲道に
精進していることは間違いない。
だが、彼らが出来ることと、横綱が出来ることには
余りにも開きが有り過ぎるのだ。
同じ競技に身を置けば、痛いほど分かる事実。
絶望的な現実に向き合い、彼らは相撲に取り組む。
光が差しているのであれば、まだ幸せなのかもしれない。
光が見えない中で、光を求められる気分はどのようなものなのか。
そう考えると、大関と言うのは名誉ではあるのだが、
もしかすると横綱よりも孤独な存在なのかもしれない。
持ち味を発揮して上位を喰えば、褒めてもらえる程度の
存在は、気が楽なのかもしれない。
だが、褒めてもらえるということは、言い方を変えると
それだけ要求水準が低いからだということでもある。
高いレベルが求めれるのは、選ばれし者の特権である。
「神様は乗り越えられる壁しか用意しない。」
孤独ではあるかもしれないが、それもまた、幸せなのかもしれない。