川崎フロンターレと、サポーターと、春日山部屋。等々力競技場に行って分かった、彼らの理想郷。
先日、川崎フロンターレのサポーターの方が春日山部屋の力士の応援のために国技館に来た話を書いた。
その際に、相撲部屋とここまでの関係を構築できる川崎フロンターレとは一体どのようなチームなのか、ということが気になった。
春日山部屋が関係なくてもその様子を凝視し、声を挙げ、手を叩き、喜怒哀楽を共にするサポーター。私自身が川崎在住ということも有り、等々力に足を運ぶのは容易いことであった。
ACLベスト4の強豪、柏レイソルとの一戦。スリルとサスペンスを凝縮したような、それこそ喜怒哀楽がぎゅぎゅっと詰まった90分はサッカーの面白さを知るにはもってこいであった。
共に笑い、共に怒る。
そして、私が一つのルール違反をした際にご指摘頂いたことも含めて大変ありがたい経験であった。
だが、言い方は悪いが、たかがサッカーチームと自分ではないか。何故に彼らはここまで川崎フロンターレに感情移入できるのか。
その回答として明らかになったこと。それは川崎フロンターレのサポーターは、サッカーチームを「俺達」として捉えている点である。
サッカーチームとサポーターの関係は、決して他人同士ではない。故にサポーターという呼び方であり、サポーターはチームの一部なのだ。
サポーターの後押しは、チームの戦力たり得るわけである。
プレイには参加しないが、共に笑い、共に怒ることがどれだけそのゲームの趨勢を変えることか。喜びを共有することはチームに勢いを与え、納得のいかない判定に意思を見せることで、審判のその後のジャッジにも影響が出る。
実利もさることながら、彼らは自分達がメリットをもたらせるからサポーター活動に精を出しているわけではない。
そこに、一切の見返りは無いのだ。
つまり、ファミリー。
「俺達」という言葉で置き換えることができる。
まるで自分達の子供を、友人を観に行くかのように彼らは等々力に足を運ぶ。
その象徴的な光景として私が驚いたのが、多くの家族連れがユニフォームを着て、自転車で駆けつけている点に有る。そしてその家族連れが、等々力付近のファミレスで試合前に楽しそうに食事をしている。
これぞ、究極の地域密着ではないだろうか。
更にその地域密着の中に、春日山部屋が組み込まれているのだ。
今回の観戦の中で、私はその光景を目の当たりにした。
ご存知の方も多いと思うが、春日山部屋は等々力で試合をする時にちゃんこの屋台を出す。私もこれが楽しみで、今日は試合に駆け付けた。
だが、高見盛(現:振分親方)の引退相撲の影響からだろうか。今日は屋台は出ていたのだが、そこに力士の姿は無かった。
そこで驚いたことが有る。
列を成すサポーター達は、力士たちが来る周期を知っていること。そして、力士が居なくても等しくちゃんこを食べることを楽しみにしているのである。
春日山部屋もまた、川崎フロンターレと共に歩み、
喜怒哀楽を共有している。
つまり、彼らから言わせれば「俺達」も同然なのだ。
そうした信頼関係が有れば、自分達の一部なのだから国技館に足を運ぶという行動もまた、当然なのである。
サッカーチームと、相撲部屋と、サポーターという点と点が線で結ばれ、互いに支え合う。
地域密着の理想郷がそこには有る。
現場に顔を出してみて初めて分かった、その快挙。そしてその理想郷に到達するまでには楽しいだけではない歴史が有ったことも想像できる。
私が今日、非常に楽しい思いをさせてもらった陰には3者の弛まぬ努力が下敷きに有るかと思うと、先人に対する感謝の念を抱かずには居られない。
私も「俺達」の仲間入り出来ないものか。
南武線で帰宅中に、そんな風に考えた。