「攻めの変化」に生じた迷い。変化すらも期待に変えた逸ノ城が見せた、人間的な弱さの価値を考える。

逸ノ城が、変化で栃煌山に敗れた。
変化に対してあれはダメだ、逃げていては勝てない、
という声が多く、確かにその通りだと思う。
逸ノ城ほどの力士である。
楽をせずに勝つ、大横綱の系譜の相撲が取れる力士なのだ。
ここで小手先の相撲を覚えて小さくまとまってほしくない、
という想いがこの逸材に苦言を呈する結果になっているのは間違いない。
ただ、そういう大きな視点というよりも
感情が先に立つというのは、単に変化=汚い、
変化=狡い、変化=悪という観念が有るからだと気づく。
考えてほしい。
正論で相手を逃げ場の無い所に追い込む時。
それは大抵、感情的になっているのだ。
そしてそのことを、相手は見抜いている。
だから、正論は彼らには届かない。
説得するのに理屈は必要だが、理屈だけでは
感情を説き伏せることは難しい。
だから、相手の気持ちに寄り添うことも時には必要になる。
恐らく今日の逸ノ城を正論で振り向かせることは出来ない。
何故なら、先場所彼は稀勢の里と鶴竜を変化で破っているからだ。
正論の中に真実が有ることは、誰でも分かる。
だが、綺麗事では済まないところにも真実が有る。
引きにも変化にもテクニックが有る。
逸ノ城が凄いのは、中途半端な変化が無いところだ。
普通は楽に勝ちたい心理が体を動かす。
だが、逸ノ城の場合は覚悟を決めて変化する。
だから思い切った変化が出来るし、相手は対応できない。
「悪いことを思い切って出来る奴は、いいことも出来る」
というのはビートたけしの振り子の理論だが、
そこに当てはまるのが逸ノ城という力士だと私は考えていた。
私が驚いたのは、変化して敗れたことではない。
そう。
中途半端に変化してしまったことである。
逸ノ城の「攻めの変化」には、覚悟が有る。
哲学が有る。
だから、先場所の変化には批判をする気が起きなかった。
変化にさえ面白さを感じたし、時代の扉をこじ開ける象徴的な形を
「攻めの変化」の中に観たからだ。
変化を責めるというよりは、横綱や実力派の大関を向こうに回して
完全に相手を喰う姿を我々に見せつけたからこそ、
その太過ぎる度胸に我々は度肝を抜かれたわけである。
アイツなら、何かやるかもしれない。
白鵬も、喰うかもしれない。
そこに有ったのは落胆ではなく、間違いなく期待だった。
変化で掴んだ勝利で、人心を掴む。
そんな力士、今まで居ただろうか?
私には記憶が無い。
私は逸ノ城にそんな規格外のスケールの相撲を期待していた。
だからこそ、逸ノ城が案外普通の姿を見せたことに驚いたのだ。
変化すらも攻めに転じさせる逸ノ城が見せた、思わぬ弱さ。
そんな逸ノ城を正論で批判したところで、何も意味を持たない。
何処にも属さぬ逸ノ城に生じた迷いは、一体彼をどうするのか。
土俵に立つだけで、逸ノ城は歴史を創り出す。
迷いすらも、逸ノ城には特別なのだ。
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