権威無き審判としての行司に、何故不要論が起こらないのか。議論が起きずリスペクトが払われることの凄さを考える。

白鵬が隠岐の海に勝利した。
隠岐の海優勢での土俵際でさく裂した鮮やかな逆転劇。咄嗟に見せた大技の決まり手は「櫓投げ」。敗色濃厚な場面からの有り得ない形で掴み取った勝利だ。横綱の強さを改めて示したこと、そしてこの珍しい決まり手が出たこと。白鵬のこんな相撲を観たいのだと改めて感じさせる一番だったことは間違いない。
嘉風との一番では変化か否かが話題になったのは、あまり見せない立合だったことが起因している。変化か否かが議論されたのは、正攻法とは異なる形を白鵬が取ったからだ。真っ向勝負という綺麗事を言う気は無いが、退屈な立ち合いであり、退屈な結末だったことが心のどこかでというレベルではない引っかかり方をしていたのは間違いない。
こういう相撲が取れるから、白鵬は魅力的なのだ。
こういう相撲が取れるのに取らないから、白鵬に怒るのだ。
さて、この取組ではもう一人の主役が居た。
そう。
式守伊之助である。
行司の軍配は隠岐の海に上がった。が、勝者は白鵬。今場所2度目の差し違いであり、2場所連続の差し違いだ。その結果、3日間の出場停止という処分が下った。一体どこの世界に、審判を処分するスポーツが存在するのだろうか。それも不祥事が原因ではなく、その理由はジャッジの正当性に起因するのだ。
大抵のスポーツでは、審判には絶大な権力が与えられる。
審判に従わない行為は処分の対象にすらなる。
権威によって競技の秩序は保たれるのである。
だが、大相撲の世界では誤審をすれば処分を受ける。それだけではない。土俵の外には5人の勝負審判が常に見ている。力士も見ている。これに加えて、ビデオ判定まで控えている。こんなに権威の無い審判役が他に存在するのだろうか。私は他に知らない。これは権威が無いどころの話ではない。行司が判定を誤っても、正確に判定可能な体制なのである。
だとすると、審判という役割の側面だけを考えると行司の存在意義は何なのか。正確な判定を求めて改善を進めた結果、世界的にも類を見ない権威なき審判が誕生した訳である。
体制を考えると、行司の権威は皆無に等しい。それでも、大相撲では行事に審判役を任せている。そして我々は、権威が無いことを知りながらそこに疑問を抱かず行司の存在を認めている。これは凄い話だ。
権威が無い。
判定はいつでも覆せる。
そんな審判にリスペクトを払える。
その理由は、行司が審判として優秀だからだと私は思うのだ。
もし差し違いが頻発したならば、その権威の無さゆえに、進行の遅延の問題ゆえに審判としての行司不要論が巻き起こることだろう。行司が無くとも、勝負が決した場所から一番近い勝負審判にジャッジの権限を与えてその判定に疑問を持った他の審判が手を挙げるシステムであっても問題は無いからだ。
審判役は何かと批判の対象になりやすい。野球でもサッカーでも批判を浴びる特定の審判が存在していることは、周知の事実である。それ故に競技として審判の権威を低下させてでも、公平かつ正確なジャッジのために改善が求められる傾向に有る。そしてその時引き合いに出されるのが、大抵相撲の判定の在り方なのである。
だが、そうした議論がここまで起きていないことこそ、実は凄いことではないかと私は思うのである。正確な判定が評価の対象となり、誤審の多い行司が出場停止にまで追い込まれるという権威なき審判としての在り方が、実は行司のスキル向上に寄与している。ここまで行司が今の形で生き永らえてきたのは、行司のプロ意識とスキルの高さに依るのだ。
審判としての権威が低下するかもしれない改善を受け入れられるのは、ジャッジが正確だという自負が有るから。正確な仕事さえすれば、そうした仕組みに頼る必要も無い。逆に、仕組みに依存するような質だとすると存在意義は無くなる。異なる話題ではあるが、メジャーリーグでビデオ判定が導入され、日本プロ野球ではそれが出来ないのは単に費用面だけでなく、審判としての質に起因するのではないかと私は思っている。
権威無き審判としての行司が今も尊敬を集めているのは、実はとてつもないことなのである。
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※追記:日本プロ野球でもホームランに限定してビデオ判定を導入している。ご指摘ありがとうございます。
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権威無き審判としての行司に、何故不要論が起こらないのか。議論が起きずリスペクトが払われることの凄さを考える。” に対して2件のコメントがあります。

  1. nishimura66 より:

    まず、白鵬の取り口について。あんな相撲をとれる白鵬が、毎日あんな相撲を取らないことに対してご不満ということだが、あんな相撲を毎日取っていたんじゃとても15日間持ちませんよ。日々の相撲にいちいち目くじらを立てるんじゃなくて。15日間のトータルで評価してあげないと。スーパーマンじゃないんですからね。
    行司の権威の無さについては、行司と審判の2重チェックを行っている点では、相撲の判定は極めて優れていると思う。ビデオもかなり早くから取り入れていたし、審判のシステムに関しては、相撲は進んでいると思う。野球だったら、昨日の取り組みも何の罪の意識もなく、白鵬の負けにしていただろう。だったら行司はいらないんじゃないかという意見もあるだろうが、相撲はやはり儀式的な面があるので、行司の存在はかなり重要な側面を占めていると思う。やはり行司は絶対に必要。

  2. penag より:

    日本プロ野球においてもビデオ判定は導入されています。(限定的ではありますが)
    氏の主義主張にはあまり興味はありませんが、ヤフーニュースの相撲のページの割合目立つ所に個人ブログや知恵袋へのリンクが貼られてしまっている現状ですので、お詳しくない領分への言及はなるべく避けて頂けると幸いです。
    新規相撲ファンが引いてしまう一因にもなりかねませんので、相撲人気拡大のためにも是非。

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