政経電論に「それでも求めてしまう、稀勢の里の物語」という記事を寄稿しました。
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同じニュースに複数記事を書く難しさ。
政経電論に「それでも求めてしまう、稀勢の里の物語」という記事を寄稿した。
今回はラジオも記事も、可能な限り仕事を受けることにした。多くの方に私の見解を届けたいと考えたからだ。選んでいただいたからには良いものをと考え、全力を尽くした。
しかし今回一番頭を悩ませたのが、テーマがいずれも「稀勢の里の引退」だったことだ。
今までであれば一つの意見を元にマイナーチェンジをすれば良かったが、これだけ仕事が増えるとある程度引き出しが必要になる。同じ記事を書く訳にはいかないのだ。
稀勢の里は魅力的な力士だが、同じ人間が魅力を語るとすると同じところに着地してしまう。これはある程度仕方のないことである。
では、どうすればいいのだろう。
私はいったい何を伝えたいのだろう。
そうすると、一つのことが思い浮かんだ。
稀勢の里に対する「後悔」
私はあまりにも稀勢の里に求め過ぎてしまっていたのだ。
土俵の現状に閉塞感にしびれを切らし、魅力に甘え、強さ以上のものを期待してしまった。勿論毎場所可能性を見せてくれたことはうれしかったし、やきもきするところも含めて全てが楽しかった。
だが、過剰に背負わせてしまったことが、実は稀勢の里を勝負弱くしてしまった。重要な場面で勝てない失敗体験を重ねさせてしまった。
そして更には怪我をしたあの場所に、強硬出場へと踏み切らせてしまった。
勿論そこには横綱としての責任感というものも有ったと思う。貴乃花が鬼の形相を見せたのと同種の覚悟があった。だからこそ、覚悟の分だけ私たちは大相撲でしか見ることのできないドラマを目の当たりにした。
こうしたものが見られるのは、大相撲だからだ。
だが大相撲であるがために、稀勢の里を失ってしまった。
私にはどちらがいいのかは分からない。稀勢の里という犠牲を目の当たりにしながら、力士を守ることだけを主張しては大相撲の魅力の大半はスポイルされることだろう。
後悔しながらも、どうあるべきか?という疑念に対して答えは無い。おそらくこれは、もっと時間を掛けて考えていくべきことなのだ。これは、単に悲劇という言葉だけでは言い表すことのできない難しい話なのである。
お知らせ
1.1月30日に幕下相撲の知られざる世界新年会を開催します。詳細につきましては現在調整中ですので、参加をご希望の際はメール、Facebookのメッセージなど、可能な手段でご連絡ください。
2.1月26日15:30より、阿佐ヶ谷「ろまんしゃ」で大相撲14日目テレビ観戦会を開催します。詳細はこちらのサイトをご覧ください。参加をご希望の際はサイトよりご登録ください。サイトの使い方が分からない、予約が難しいという方はmakushitasumo@gmail.comまでご相談ください。
3.Instagramサイトをリニューアルしました。大相撲がある日常というテーマで写真を掲載しておりますので、ぜひご覧ください。Instagramサイトはこちら。