猫だましによる勝利は、白鵬スタイルの最新型である。物議を超えた、相撲の次世代標準の在り方について考える。

九州場所10日目。
白鵬栃煌山戦。

現地に居た私には、何が起きたか分からなかった。不可解な何かが起きて栃煌山が決定的に不利な体勢になり、あっさりと土俵を割った。その何かを起こしたのは当然白鵬だ。

その「不可解な何か」が猫だましであると知ったのは、帰りの道中のことだった。

白鵬がこのような相撲を取ると、最近では記者が親方衆に見解を聞きに行く。正当なのか、不当なのか。白鵬が悪いのか、相手が悪いのか。焦点となるのは、そこである。

だが何故わざわざ見解に対して伺いを立てねばならぬのかと考える。本来物議を醸すような取組というのは、ラフであったり何かに反する行いを取った時だ。誰が見ても一定の正論を示すことが出来る場合、そのようなプロセスは不要だ。つまり、記者の裁量ではその取組の是非を論じられない次元にまで白鵬は来ているのである。

白鵬の相撲はオーソドックスな形が大多数だが、時としてこのような難解な内容になることも有る。だが観衆はオーソドックスに対しては一定の見解を示せるが、このような取組の後は激しく混乱する。スッキリしないのである。

その取組が凄いということは分かる。とはいえ、その凄さは期待していたそれとは異なるものだ。いわゆる「相撲」、前述の表現で言うならばオーソドックスな相撲ではないものが出てきたときに観客全員が賞賛することは出来ない。それは白鵬の取口の性格上、致し方ないことだ。

そしてそのスッキリしない部分の源泉に有るのは、白鵬の変化だ。白鵬がここまで尊敬を集めているのは、2011年以降の相撲界で、範となる姿勢を貫いてきたからだ。横綱としての土俵外での振舞いも大きいが、相撲伝統のオーソドックスを貫き、相撲の凄さを守り抜いたこと。これに尽きるのだ。

日馬富士と稀勢の里の台頭と同時に白鵬自身の短期的なスランプが有り、以降スタイルに変化が生じた。どうしても当時の白鵬の幻影を求めてしまう。それは白鵬の残した功績故のものだ。他の力士には何も言わないのに、白鵬だけが責められるのは我慢ならないという方も居るが、求めるものが異なるだけなのである。

だから、かつての白鵬と異なる相撲が出ると、物議を醸すことになる。それは白鵬ファンの方としても納得せずとも理解しなければならない部分ではあると思う。

ただ、あくまでも個人的な主観だが、今回の猫だましについては批判や賞賛という観念を飛び越えてしまった。こんな相撲が有るのか。猫だましを栃煌山に対して有効に使うことが出来るのか。と。他の誰が、このような戦略で完全勝利出来ただろうか。

しかもこの相撲は、あくまでも勝利を収めたからこそ物議を醸しているのであって、敗れたとしたら更なる批判を受けることになったはずなのである。
近年の白鵬の変化で垣間見えたのは、勝利に対する並々ならぬ拘り。それこそが、日本出身力士との決定的な違いである。批判をも厭わぬ、断固たる姿勢。そしてそれは、日馬富士も鶴竜も、照ノ富士も備えている資質だ。

その姿勢を貫き先鋭化させた先に有るのが、猫だましによる勝利なのである。白鵬の相撲は、異次元のところにまで進化している。世の価値基準がまだ白鵬に追いついていないのは間違いないだろう。

ひょっとしたら、将来的に白鵬のスタイルが標準となる時代が来るかもしれない。何故なら、今の白鵬を破るにはオーソドックスでは限界が有るからだ。あらゆる可能性を想定し、自らも勝利にこだわり抜く姿勢を見せない限り、今の白鵬には勝てない。

この後、どのような白鵬スタイルが出てくるのか。
結局観衆は、白鵬から離れられないのである。