貴景勝批判に見る、「批判家」としてのやくみつるの凄さを語る。
九州場所を翌週に控え、こんな記事が出てきた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f1c4df08cf61c0b327ac757c0f3f5f6e2f81b9d2
少し長い記事なので、大事な部分だけ抽出しよう。
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漫画家のやくみつる氏の言葉は手厳しい。 「(先場所の優勝は)ノーカウント。記録には残しても、むしろ“賜杯をあげなければよかったのに”と思う。性根が腐っています。11月場所で堂々とした自分の相撲で優勝をしたら、そこから綱取りの挑戦がスタートするくらいでいいんじゃないですか」
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最初の感想としては、まぁ貴景勝は優勝決定戦で批判も全て受け止める覚悟であの立ち合いをしており、故に優勝後に全く弁解していないのだから、どうということもないというものだった。
このように批判する人など星の数ほど居るだろうし、全ての相撲ファン、評論家、親方、関係者が擁護できるものではなかったことは事実なのだ。だからこそ、そりゃこんな記事も出るよねという程度にしか気にならなかった。
逆に言えばこの論調の記事が一切出ないとなるとそれはそれで不自然だと思う。批判はの溜飲を下げる記事は、批判する側にも擁護する側にもガソリンのようなもので、どちらの側もヒートアップできる。つまり、PVが稼げるので出版社としてはこの上なく美味しいものだ。
私にとっては今の貴景勝を批判することは少し感情に波が立つ程度の話なので、この話はこれで終わりで良いと思った。
ただ。
よく考えるとこの記事は凄いと思ったのだ。厳密に言えば記事が、ではない。やくみつるがすごいのだ。これは全く嫌味でも何でもない。単純にすごい。
そういえば。
考えてみるとやくさんが記事になる時の殆どが批判記事だ。
何故かやくさんは誰かを批判するとき、それが政治でも野球でも相撲でも構わないのだが、ヤフーニュースの過去に「やくみつる」が登場した記事をおさらいしてみると「やくみつる大絶賛!」みたいなものはほぼ出てこないことだと思う。それほどやくさんはいつだってしたり顔で登場する。
やくさんの凄いところをふと考えた。
それは、絶対にこちらの感情を逆なですることを百発百中で言ってくれるという点だ。
批判記事に評論家や論客として登場し、偉そうな顔をして正論の皮をかぶった極端な発言をして、しかもそれが的を射ていなくて、読み手の溜飲を全く下げずにヘイトを買い、ネットで罵声を受ける。それでも批判記事に登場し、訳知り顔で批判を展開する。
これが、やくみつるの仕事だ。
いや。
これ。
嫌味ではなくて、私には単純に出来ない。
私には出来ないと考えるのには2つ理由がある。
一つは、これだけヘイトを買う発言を繰り返していると、仕事が無くなってしまう恐れがあるということだ。
私もライターになってよく分かったのだが、基本的には発言には本当に気を遣っている。10年前に言えたことが今では全く言えないということもある。しかし私は何でも言える立場にあることが一つの強みでもあるので、厳しいことを言う時は本当に覚悟を決める。
その発言が原因で干されることやそれが転じて立場を失うことですら考える。仮にそうなったとしても本望だと思い、書くべきを書こうと考えて記事にすることもある。
やくさんの場合は覚悟や配慮がほぼ見えない言葉選びをしているということだ。
たとえ本心ではそう思っていても貴景勝に「性根が腐っている」を実名で言えるのは様々なものが振りきれているとしか言いようがない。
もう一つは、白黒の二元論で物事を語れないということだ。
考えてもみてほしい。
貴景勝は満身創痍で、休場とギリギリ勝ち越しと優勝争いしかない、安定とは無縁の力士だ。毎場所テーマの異なる戦いを強いられている。大関の地位、相撲界の顔としての責任を果たすために文字通り命がけで毎場所を駆け抜けているのである。
相撲ファンであれば、そんなことは百も承知のはずだ。
そして、やくさんくらいの立場になると土俵内外の様々な情報が入ってくる。となると、貴景勝という力士が如何に大変な状況かということを一般人レベルとは異なる水準で知ることも出来るだろう。流行語大賞選考委員なのにNetfrixは知らないらしいが、流石に相撲に関してはその限りではないだろう。
その上で、あの優勝のことを「性根が腐っている」とまで切り捨てられる。
様々な情報が入ってくると、感情というのは白か黒かにはなりにくい。もっとグラデーションの付いたものになるはずなのに、やくさんの批評はいつだって白か黒かなのだ。
私には、絶対無理だ。
これに関しては、2つの見方がある。純粋に極端な人であるという見方と、ポジショントークとして白か黒かを選んでいるという見方だ。
私個人としては後者であってほしいと思う。純粋にこのような白黒が付く人間がこの世に存在し、それなりのポジションで批評をしているとは思いたくないからだ。
やくみつるは評論家ではない。
批判家である。
テレビや雑誌が誰かの批判をしてほしい時に登場し、言葉の限りを尽くして批判し、ヘイトを買う。ここまでが批判家としてのやくみつるの仕事だ。誰かの批判記事を書きたい時にある一方の立場に立って、理想的な批判をしてくれる、批判のプロ。
使う側としては非常に使いやすい存在だと思う。雑誌が批判をされるわけではなく、その発言をしているのはあくまでもやくみつるだからだ。そう考えると、流行語大賞を彼が選考委員を務めているのも理由が見えてくる。
言いたいことが記事や映像に出来て、ヘイトはやくみつるに向かう。
最近ではこの批判家としての仕事もかつてと比べるとそれほど多いものではない。恐らくそれは、多様な見方がかつてと比べると浸透してきているからではないかと思う。つまり、やくみつるを矢面に立たせるような一方からの痛烈な批判は流行らないのである。
もう世の中が批判家を必要としていない時代が来ているのかもしれないが、一つ言いたい。
やくさんの後釜だけはご免だ。
誰も期待していないだろうが。